真の教会


  ■信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。(ローマ10:14-15)

  ◆教会は、主から永遠の命と平安を与えられた喜びの集団であり、自己中心的な生き方を捨て、自己犠牲に生きる人々の集団です。

  ◆教会は、悩む人と共に悩み、喜ぶ人と共に喜び、サタンから人々開放させるための主の宮です。

  ◆教会は、福音を知らない人々に対して開かれたオープン・パブリックな場所であり、そこには信者と未信者の差別はありません。

  ◆教会には必ず、「聖書に忠実」、「キリスト中心」、「聖霊充満」の3つの要素があります。

  ◆神のプレゼンス、神のパワー、祈りのプロセスは、教会成長に必要な3Pです。

  ◆教会は「感謝」が基本です。プラス面は勿論、マイナス面もいつかは必ずプラスに転換されます。十字架こそプラスの象徴だからです。

  ◆祝福された教会には必ず「笑い」があります。「笑い」は、教会の質と成長とに深く係わっています。

  ◆祝福された教会には「平和」「喜び」「自由」を感じさせる霊的空気があります。これ等は獲得するものではなく、与えられるものです。

  ◆教会は子供と同じで、健康な環境にいれば必ず成長します。教会の成長は主の御心であり、主御自身の働きだからです。

  ◆聖書には教派-教団名はおろか、教会の名前すら一言もなく、教会を大きくするための方法論も何処にも記されていません。教会のために人があるのではなく、人のために教会があるのです。

  ◆ニーチェは「クリスチャンはもう少し贖われたような顔をしたらどうだ?」と言いました。一般の人々が日本の教会に対して持っている3Kイメージ(固い、暗い、厳しい)を壊し、私達クリスチャンが光の子らしく明るく歩めば、必ず教会には人が集まって来ます。

  ■教会はキリストの体であり、全てにおいて全てを満たしている方の満ちておられる場です。(エペソ1:23)


  熱帯魚を飼うには、綺麗な水を用意しなければならないように、献身的な信徒を生み出すには、先ず、適切な環境が必要です。教会は生き物なので、その体質はそのまま雰囲気となって表れます。教会が目指す雰囲気とは、「愛と赦し」「自然体」「楽しさ」「レスポンス」「肯定的」「責任感」「前向き」「柔軟性」などですが、その中で最も必要不可欠なのは、「正直さ」です。偽善はイエスが最も嫌った罪であり、同時に宗教者が一番陥りやすい罪でもあります。

  この世の中は比較競争社会であり、支配する側になるか、される側になるか、人は地位、名誉、学歴、成功を求め、そのために子供の頃から一生懸命勉強してきたと言っても過言ではありません。事実、男性は社会的に成功しているか否かで、自分に対する自信の持ち方が、大きく変わります。学歴がその人の看板となり、自分の地位が誇りとなり、今まで自分が獲得したこのような付属品の上に、自分のアイデンティティを立脚している。これがこの世の現実です。

  多くの教会が気付かない内に、このようなこの世的価値観を教会内に持ち込んでしまっています。あの人は東大卒、あの人は松下の重役、あの人はお金持ちだ云々、と言ったこの世的価値観です。聖書の言う「肉の思い」とは、弟子達がイエスが十字架につけられる直前まで話し合っていた「この中で誰が一番偉いのか?」いうことが、全ての元となっているのです。

  9割以上の日本の教会は、”妥協埋没型”か、“純粋孤立型”かに大別されそうですが、前者にありがちなのが、会堂の大きさや教会員の数、神学校の学位云々。また、純粋であるはずの後者のタイプに発生しがちなのが、何時間祈った、何日断食をした、異言が話せる、自分は聖霊体験をしたが、あの人はしていない云々といった霊的自慢大会です。

  世の中の人々は、そのような競争比較社会にほとほと疲れ、「本物」に飢え乾いています。もし、教会内での価値観がこの世と何ら変わらず、パフォーマンスだけの集団であるならば、人々は教会に対して興味を示すことはないでしょう。人々心の癒しを目的としながら、優越感と劣等感とが交差しているような不可思議な場所で、誰も自分の心を開いたりはしません。

  大宣教命令のゴールが「救い」ではなく、「弟子化」にあるように、教会の存続目的は信徒達を整え、伝道ができる者に育てることにあります。失われた羊を探し出し、育てる(伝道と牧会)ことのできる弟子の育成こそ、Cell教会が目指すゴールです。ここで言う「奉仕」の意味は、奏楽者でも、会場係でも、会計係りではなく、失われた羊を探し出し、育てること。つまり、聖書が言う教会とは、羊飼い達の集団なのです。

  組織は人が増えれば、個人の特性を考慮しながら目的遂行のために、組織運営化します。日本の教会形成は、この会社型運営を採用した米国の方法を受け継いだものです。ところが、多くの日本の教会は、組織を運営するためだけの組織に留まり、「失われた羊を探し出し、育てることのできる人を生み出す」ための組織にまで成長してないのが現状です。

  エペソ4章が教える「奉仕」とは、あくまで伝道と牧会のことで、組織運営をすることではありません。確かに会堂のサイズや教会員の数は神からの祝福ですが、それは信徒が自慢するためにあるのではありません。劣等感も優越感も主から来たものではありません。教会において誇るべきものは、イエス・キリスト以外にあってはなりません。

  何処の教会も人数が増えることを一つの目的としていますが、ピラミッド型の組織では、人の数と比例して問題も増えて来ます。指導や連絡が底辺まで行き届かなくなり、信徒間の交流が希薄になり、牧師が雑事に追われ、傍観者の数が増えてしまう等々、数が増えたことによって、発生するマイナス面についての対応が難しくなって来ます。事実、多くの教会が、家庭集会もマンネリ化し、週に一度の牧師のメッセージだけでは、とても信徒達を養い切れなくなっているのです。

  実に福音は、単に聖書知識の切り売りによってではなく、神と出会い、変えられた人の証しを通してのみ拡大していきます。日本の宣教が100年以上1%の壁を破ることができない理由は、神体験に基づいていない神学知識を土台に、宣教を継続してきたからに他なりません。神体験のない人がいくら聖書知識を熱弁しても、人を動かす感動が生まれる道理はないからです。

  ■ペテロはこのほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。ペテロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に3千人ほどが仲間に加わった。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。信者達は皆一つになって、全ての物を共有にし財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿(礼拝*)に参り、家(Cell教会*)ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。(使徒2:40-47 *筆者注)

  主の宣教の御業を大胆に表わしていた初代教会と、その再来とも言える中国の地下教会。会堂や神学書などは勿論、個人用の聖書すら持っていない彼等の宣教パワーは何処にあったのでしょうか?それは、彼等の確固たるキリスト者としてのアイデンティティでした。彼等は日々主の十字架の苦しみを思い出し、感謝し、祈り、涙し、御言葉を自分自身の実際生活の中に適用して生きていました。彼等は自分のためではなく、主のために生きていたのです。

  「証しをし」、「バプテスマを授け」、「仲間を増やし」、「交り」、「訓練を受け」、「伝道し」、「主の弟子に加える」。

  初代教会は、ただこの働きを繰り返していました。Cell教会の目的は、週に一度のCell集会と合同礼拝(セレブレイション)を守りつつ、真のクリスチャン共同体をつくり、それを増殖させることにあります。それは決して新しい方法を導入しようというのではなく、初代教会のような教会本来の姿に戻ろうという、それだけのことなのです。

  主は真実な教会の誕生を切望しておられます。今、教会のCell化は聖霊の波に乗ることを意味します。教会は神の栄光の表現、キリストの身体、聖霊の住い。そこには人間がつくった教派や教理、私たちの人間的な権利や主張が介在する余地など何処にもありません。


  ■体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし、体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。全てが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。私達は、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。(Tコリント12:14-27)












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