Cellリーダーの条件


■「誇る者は主を誇れ。」 自己推薦する者ではなく、主から推薦される人こそ、適格者として受け入れられるのです。(Uコリント10:18)

子供育てにおいて最も基本的なことは、わが子を無条件の愛で包み、安心感を与えることにあります。子供は両親からの愛をたっぷり受けながら、自らのアイデンティティを確立して行きます。その段階を経て、親子の深い交わりの中から、父親としての正しい生き方(正義)や母親の優しさ(無条件の愛)などを学んで行く。このように、健全な大人は幼少時代に、この2つのプロセスを通過して育てられています。

つまり、アイデンティティの確立とは、尊敬する父と母の生き方を体得することなのです。そういった経過を経て、今度は子供が自分で独立する準備に入ります。仕事を探し、結婚し、子供を生み育てる。彼等のような夫婦は子供を授けられた後、子育てに関して特に育児書から学ぶ必要はありません。何故なら、どのように子供を育てたらよいかは、自分の体験を通して、身体に染み付いているからです。

霊的に人を育てるということも、これと全く同様です。ところが、この一番初歩の段階で通過しなければならない個人のアイデンティティの確立が、今の日本の教会には最も欠如しているのです。基礎工事が完了しない限り、家を建てることなどは出来ないように、アイデンティティの確立が成されないままの牧会は、文字通り危険極まりないものとなってしまいます。

そういった場合、信徒は育たないまま年だけが過ぎ、霊的には幼児のままで身体だけが老化する。つまり、3歳児クリスチャンとして何の成長もしないまま、何十年と過ごしてしまうということが、現実に少なくないのです。このような教会は、霊的指数が低いどころか、互いに裁き合い、妬み合い、逆に主の働きを妨害する群れと化します。

私達にとっての真理とは、福音であり、御言葉です。キリスト者一人一人のアイデンティティ確立のためには、信仰義認、十字架の死と復活、聖霊に聞き従った歩みについての正確な福音理解が必要です。例えば、新生と聖化の違いを理解していない人が、聖めのメッセージを聞き続けると、心に混乱が生じて救いの確信がぐらついてしまう。このようなことがないように、私達は自分が救われた確信を、何時でも御言葉から分りやすく人に伝えられるように準備をしておく必要があるのです。但し、解釈や説明が複雑すぎると、返って相手の益にならず、逆に混乱させる危険性があるので注意しなければなりません。

心の解放は教理的にみると、聖霊に聞き従う歩み、つまり「聖化」という部分に属します。救われた魂のアイデンティティが確立されていくためには、解放がどうしても重要な役割を果たします。解放を受け、古い生き方、アイデンティティ、価値観、自慢、野望等を脱ぎ捨て、キリストを着るのです。それは、キリストにある身分、キリストにある生き方、キリストによる価値観、キリストにあるアイデンティティ、神の御心を求める生き方なのです。

キリストの弟子とは、ただ“神の御言葉を聞く人ではなく、御声を聞いて行なう人のこと”です。主の御心を求める人とは、単に霊的な人ではなく、人を愛する人のこと。主の御心の大半は、人間関係の中で行なわれます。霊的な体験をしたという人は多いですが、彼らは少なからず、人間関係において多くの摩擦を起こしています。これこそ、本末転倒であると言わざるを得ません。

私達が主の弟子として生きるということは、自我を捨て、主の御心を知り、それを行なう生活の中に入ることを意味します。それが祝福への道なのです。自分を捨てられる人は、より多くを所有するようになります。

理想的なCellリーダーの条件は、正しい生き方を持った父親であり、また、無条件の愛をもった母親であることです。神学校を出ればリーダーになれるのではありません。勿論、正しい聖書知識は必要です。しかし、子供を生み、霊的な成人として育てられる、神の愛に養われた人格こそが、本当の意味での宣教の土台となるのです。

Cell教会のムーブメントは、万人祭司制の回復にあります。プロテスタントの真髄は、万民祭司制であり、一度神学を学んだ者なら誰もが知っているはずなのに、何故かそれを実践している者はほとんどいません。

確かに、牧師は信徒一人一人が喜びを持って奉仕が出来るように導く霊的リーダーであり、そのための礼典(聖餐式と洗礼式)の執行を主から委託された者です。しかし、それはあくまで役割の違いであって、上下関係ではありません。

Cellリ−ダーは、自分が何をしようとしているのかをはっきりと知る必要があります。先ずはその動機です。何を目的にCellを始めるのか? 人を増やしたり、教会内の交わりを深いものにするということは究極の目的ではありません。Cell教会の目的は、霊的なチームワークによって、失われた人々をキリストのもとに救出し、彼等をキリストの弟子とするためにあるのです。

イエスは、弟子は師にまさるものではない(ルカ6:40)、と言われましたが、教会は牧師以上には成長できないということも一つの現実です。事実、教会の性質や雰囲気は、良くも悪くも牧師の影響力が一番強く反映されます。牧師がよく伝道する人ならば、伝道する教会となり、そうでなければ、いくら周りが伝道と叫んだとろこで、伝道的な教会にはなりません。

家庭の父親が子供のモデルとなっているように、教会は牧師がモデルです。ですが、伝統的なピラミッド形式の教会では、牧師のモデルとしての生き方が底辺まで届くことは至難の業です。ある人々はよく理解し、牧師について来てくれるものの、個々において責任がなく、共に成長しようというシステムがないので、残念ながらその効果は薄いのです。しかし、Cell教会では牧師の生き方が、グループの底辺にまで届いていることが前提となります。

■わたしよりも家族を愛する者、財産を愛する者はわたしの弟子にはなれない。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることができない。(ルカ14:27)

イエスは突然振り向いて、自分に従ってくる群衆に向かってこう言われました。その時、いったいどれだけの人がイエスから去って行ったことでしょう。勿論、主はここで家族をないがしろにしろなどと言われたのではありません。神を第一にすれば家族に対しても、社会に対しても、自然に御心を行えるようになり、結果的に全ての関係が改善されると言われたのです。

はっきり申し上げます。この世においてイエス・キリスト以外の何ものも全てバブルであり、蜃気楼です。誰でも自分の利益やプライドのために行動すれば、逆にその両方を失うことになります。同様に自分の家族のことだけを考え、主を後回しにするなら、その家族は神の祝福を失うことになるでしょう。

初代教会に近い群れをつくるためには、決して聖書が教えるスタンダードを下げてはなりません。神への従順は、聖書が教える最重要事項であり、それは時代や民族、習慣によって変わるものではありません。牧師が教会運営や人数確保に気を使い過ぎて、本質を疎かにしていると、必ず以下のような代償を支払うことになります。私達キリスト者はこのことを決して忘れてはなりません。

1)仕えることを知らない受け身の教会。多くの信徒は子供のまま。

2)信徒の多くが御言葉を聞くだけで実践しない者となり、従順性に欠けるためキリストの御名が汚され、世の光、地の塩とは程遠い生活をすることになる。

3)燃えるものがなく、やる気のない生ぬるい教会となる。

4)従う意思のある人までが、生ぬるい人達に感化され、命を失う。

聖書が教える教会体制とは、民主政治ではなく神権政治です。その意味は、人間の思惑ではなく、神の御旨を第一とした政治形態ということです。それは、人を恐れて行動するのではなく、神に身を捧げ、敬い、自分の賜物を生かしながら行動出来る体制のことを意味します。

神はイスラエルの民をエジプトから救い出し、カナンの地に導くために、モーセというリーダーを選出して、神の権威を分け与えられました。モーセはその仕事を、アロンとミリアム級の牧会スタッフ、長老級のスタッフ、10人の長、50人の長、100人の長、1000人の長の地域牧師やスーパーバイザー、Cellリーダー達に分担して、神の計画を実行していきました(出エジプト18:12-27)。教会は温かく自然な家族関係でありながら、同時に御言葉に権威を置いたポジティブな縦型関係によって、神の組織としての秩序を保つことが必要なのです。

■あなたがたは選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民であって、一人一人が聖なる祭司である。(Tペテロ2:5-9)













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