Cell教会の具体化


■わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、”霊”と力の証明によるものでした。それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。(Tコリント2:4-5)

私達の中の多くは、街でチラシを見て教会に来たというよりは、知人に誘われて来ました。自分の友人が一緒であれば、教会の敷居が少々高くても入ることが出来ますが、誰も知人がいない場所、特に宗教組織に人は容易に入ることは出来ません。人が教会に行くということが、とても勇気のいる行為だということを理解出来れば、教会は新来会者をおのずと大切にするでしょう。

友人に誘われたケースとは別に、伝道集会等に一人で来たという人は、たとえその人が福音を受け入れたとしても、その後、しっかりとキリストとつながるために、早く信仰を分かち合える友人を見つけることが必要です。それは、初心者クラスの同僚ではなく、心を開くことができる正しい信仰を持ったクリスチャンです。

一人一人のキリストにあるアイデンティティが確立されるためには、先ず相手が「所属感」を感じる必要があります。初めてCell集会や礼拝に参加してくれた人のためにスタッフは祈り、交わり、食事に招待します。そして、その人に個人的な友人、霊的スポンサーを紹介します。彼はその人と個人的に関わり、深い人間関係を構築するために時間を使います。所属感というのは、一緒に時間を過ごす以外には生まれないからです。

◆イエスは失われた人々に対して何をされていたか?
1) 羊飼いのいない羊のように、弱り果て倒れている彼等を可愛そうに思われた。(マタイ9:36/14:14)

2)「イエスは一人一人に手を置いて、癒やされた」イエスが群衆を愛されたと言う時、それは「癒しと悪霊の束縛からの解放」を指す。(ルカ4:40)

3)イエスは「癒しと解放」を、ご自分でされただけではなく、12弟子と70人の弟子を2人づつに分け、同じ様にするように権威を授けて派遣された。(ルカ10)

4)イエスは食事を共にすることを通して、神の国を拡大された。(マルコ2:16)

5)心を開いて自分のニーズを明らかにする「平安の子」がいたら、そこに留まるように弟子達に教えた。(ルカ10:5-9)


◆平和の子
■どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである。家から家へと渡り歩くな。どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、その町の病人を癒し、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。(ルカ10:5-9)

イエスは宣教のために、2人ずつ弟子たちを派遣されました。そして2人は町を動き回り、「平安の子」を見付けてそこに留まったのです。実を結ぶ種は、道端でも、岩地でも、荊の中でもなく、良い地に蒔かれた種です。それは、福音が「良い地」に蒔かれさえすれば、聖霊が自動的に働いてくださり、実を結ぶという福音の原則にのっとっています。

「平安の子」とは、自分が変えられたいと願っている人のことを指し、信者、未信者とは関係ありません。それは見るからに平和そうに見える人よりも、ザアカイとか、サマリアの女のような、主が働かなければどうしょうもないような人である可能性の方が高いのです。抑圧された生活の経験者である人の方が、その思いを正直に主の前に打ち明けることが出来れば、今迄束縛されていた分、より大きな自由となって開放感を呼び起こします。

私達が「平安の子」を見つけたならば、そこを拠点に宣教が始まります。最初にすべきことは、病人を癒し、悪霊を追い出すことです。「平安の子」の家に住む家族のニーズを聞き、癒しと解放を行う。そして、「平安の子」の友人達に対しても、癒しと解放を伝え、彼等の家をCell教会へと変えて行きます。そうすると、今迄教会の会堂にしか足を運べなかった未信者の人々が、家々にあるCell教会に訪れるようになります。

今迄一人で聖書を読み、一方的にメッセージを聞くだけだった状態が、御言葉について互いに意見を交換し合い、実践し、そして体験するようになります。今迄教会組織に束縛されていた信徒達も、自主的に伝道に参加し、人々を救いと成長に導くことが、自然な姿で出来るようになるのです。

もし、誰かが変えられたいと願い、主に対して柔らかい心を持ち続けているのなら、その人は「良い地」であり、宣教の実を結ぼうとしている重要な人材です。主の働きの対象は、何時でも「頑なな人」ではなく「変えられたい人」。主は「変えられたい人」を通して、御国拡大の御業を世界中に拡げておらます。これこそ、Cell教会の原動力です。


◆イエスの宣教方法を現代に当てはめる
1)キリストの心を自分の心とする。失われた人々を神から委ねられた羊達と確信する。

2)友人と会う前に、みんなで祈る時を持つ。導きについて主の御声をいただく。

3)親しくなるために、食事やお茶の席に招く。

4)食事の交わり中で、霊の家族として自然に交わる。

5) 教えたり、諭したりする態度に出ない。(話すより聞く姿勢)

6)心と霊の話をする。(御言葉によって自分の心が変えられ、癒され、解放された話等)

7) 霊的な雰囲気に導く最良の道は、相手のために祈り、主からいただいたメッセージを語ってあげること。

8)霊的なことを話し始めると、聖霊がその場に臨在されていることを感じます。

9) 数回の交わりの後に教会の仲間を紹介して、友達の輪を広げます。

◆Cell教会9つの基礎
1)ビジョンの明確化。『幻がなければ民は堕落する』(箴言29:18)
(ビジョンのない教会は、行き先のない旅行のようなもの)

2)量より質。
(霊的にリバイバルした10人は、霊的に死んでいる100人より遥かに価値がある)

3)失敗と無理解を恐れない。
(献身がないことは問題ですが、失敗は問題にはなりません。失うことを恐れると、失わなくてもいいものまで失ってしまう)

4)教会には必ず霊的リーダーが立てられています。良きリーダーなくして、力強い教会の構築は不可能です。謙虚に身を低く出来る者こそセルリーダーであり、その権威に従うことで、一人一人が自らリーダーとしての資質を現場で学んで行きます。(建て上げたばかりでリーダー不在の教会は、自分達が目標としている教会の牧師にアドバイザーになってもらう)

5)教会がCell化する前は、人々の問題は隠されており、霊的3歳児のクリスチャンが多いので、思いがけない人が神の敵として隠れ潜んでいることがあります。この点で驚かないようにしてください。(教会には、低い霊性を知識でごまかしている人が実際にいます。また、何処の教会にも、協力集団、ほどほど協力集団、無関心集団、反対集団が必ず一定の割合で存在している)

6)Cell教会は、システムだけを導入しても成功はしません。成功のためには、スタッフひとりひとりに「御心を行ないたい!」という熱い願いが必要です。知識で知っていても、行いが伴わなければ、それは知らないことと同じです。

7)深刻になり過ぎず、急がず、焦らず、押し付けない。チームワークがないままCellを進めるのは危険です。神様によって立てられたCellリーダーを中心に、自分達の願いが、神様の願いと一致するまで、互いに祈り合ってください。

8)Cell化のタイミングを計ることは大切ですが、慎重過ぎないようにしてください。始めるにあたっては、全体像と目的、方法を掴めればそれで十分です。そして、実際に行動しながら、壁にぶつかる毎に主から答えをいただくようにしましょう。

9)地域性や、集まる人々の世代を考慮しつつ、互いに心を開きやすいグループを作ってください。礼拝(セレブレイション)ではCell集会への油注ぎを求め、聖霊のリードに委ねてください。家庭をCell化する場合は、十代は親の前では心を開かない場合が多いので、彼らの世代を中心としたCellを別に作った方が良いでしょう。

◆Cell教会の4W+1P
1.Welcom(アイスブレーカー)お互いが知り合い、仲良くなる時間
2.Worship(主を礼拝する)主を讃美し見上げ、交わる時間
3.Work(ビジョン)人々を救いに招くために祈り、準備する時間
4.Word(御言葉)主の御言葉を分かち合い、深め、生活に適応する時間
5.Pray(祈り)お互いの必要のために祈り合う時間

◆Cell教会の役割分担
Cell Leader:週1度の礼拝とCell集会の実践。福音の正しい理解を人々に伝える。心の開放と、聖書弟子教育等、Cell Groupの成長に全力を注ぐ。

Supervisor:月1度リーダーズミーティングの場を持ち、Cell Leaderを助ける。

Staff:毎週の礼拝とCellミーティングを守る。

Bodyguard:グループの中から牧師が選んだ従順でクリエィティブなスタッフ。Cell教会活動活性化のためのミーティングを随時行う。

◆洗礼式と聖餐式について
セル教会でよく問題となるのは、イエスが私達クリスチャンに行なうように命じた、二つの礼典(洗礼式/マタイ28:19-20・聖餐式/Tコリント11:23-34)についてです。

この礼典を行なう権威を持っているお方は、イエス・キリストのみ。キリストの代理として、この礼典を人々に対して施行することが出来る人の条件はただ一つ。その人が“真のキリストの弟子”であるか否かです。

誰が真のキリストの弟子なのかは、人間の目には分かりません。ですから通常、地域教会では、神学校で学び、牧会経験を何年も積んだ後、按手霊を受けた牧師だけが、この礼典を行なうことが出来るとしています。

このことは、律法的な意味ではなく、一つの審査基準として、私達も参考にすべきでしょう。確かに、キリスト弟子であると言うことは、そう簡単なことでないからです。(ルカ14:33)また、聖餐式が持つ霊的意味の重要性について、私達は真剣に吟味しなければなりません。(Tコリント11:27-28)

キリストの弟子とは誰か?それは、“イエス・キリストを人生の第一優先とし、正しくバランスの取れた福音理解を持った、伝道に熱意のある人”のことです。

私達の教会では、たとえ神学校を出ていなくても、牧師と教会に集っておられる方々が認め、牧師から堅身霊を受けた人を、責任あるキリストの弟子として認知しています。それは、人や組織からの認可ではなく、ただキリスト・イエスの認可によるものです。そのようなキリストの弟子が育つまでは、田中牧師が二つの礼典を務めさせていただいています。













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