| 友人の奥さんが夏の疲れから高熱を出して寝こんだ。平熱が低い人だけに少しの熱も体に響く。医者に見せたところ、腹部のヘルペス、膀胱炎の併発、下痢症状と風邪、さらには手の平に切り傷と、そこに細菌による炎症、足にまめと水泡と幾重にも弱った体に痛みを加えた。医者も何処から手をつけたら良いのかと困惑した。
それより本人の痛みと苦しみは、いかがなものか。「痛い痛い、ずきずきする。体が熱い」と医者の治療にもかかわらず幾晩も続いた。友人も奥さんの痛みを少しでも和らげようと、
患部を冷やしたり、さすったりと痛みを分かち合おうと一生懸命であった。
しかし、一週間たっても痛みの合併症と言うか、重なる痛みが収まらず、ただひたすら神に祈るしかなかった。
友人も奥さんのその痛みを真剣に受けとめていたが、実際に奥さんの苦しみを見て、
簡単に「痛いだろう、すぐ直るよ、大丈夫、がんばれ!」とは逆に言えない。
「私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります」(ローマ人への手紙9:2)パウロのような大きな心を持ちたいものと思った。
精神科医の神谷美恵子もその著書の中で、「何故私達でなくて、あなたが?」と目の前にいる患者達を診て言葉にならない叫びを上げた。
共感とは、悲しみ苦しみにある人と同じ目線、同じ立場でその心のうめきを分かち合う事だと理解はするが、実際には、“同じ”というレベルには立ちたいが、結果はほんの少し近づくだけのことでしかない。
「分かるよ」なんて簡単に言って欲しくないと、クライアントの声が聞こえる。
友人も奥さんに、「痛いだろう、苦しいだろう、先生の薬がすぐに効いてくるからね」とは言うものの、その様子を見ていると、却ってそんな口先だけの“なぐさめ”の言葉が白々しくなってくるのが、またたまらない。黙って、ただそばにいて耐えているしかない。
「何かして欲しいことはない?」と聞いても、痛みをこらえることしかない奥さんにとっては、「言わなければやってくれないの!」と苛立つであろう。身体をさすったって痛いものだ。空気が動いても、人がセキをしても響くものだ。どうしたらいいのか?人の苦しみ痛み悩みの共感と言っても、理解するのさえはばかるものだ。
さりとて、自分を傷つけ同じ痛みを味わえということではない。共感の字をばらせが、“共”すなわち共にあれ、共にあって神の下にあることを感謝することとなろう。苦しい時悲しい時、共にある人がいるということが大切なことなのです。
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